エリヤと旧約聖書のおはなし(2)                 

〔預言者について〕 

『エリヤ』前半は、預言者としてのエリヤとバアル宗教の預言者たちの対決です。ところで「預言者」ってどんな人たちだったのでしょう? 聖書中には女性の預言者も出てきます。モーセの姉妹ミリアムや、イスラエルに統一王国ができる前の時代に活躍したデボラ、また新約聖書にも幼子イエスがエルサレムの神殿に連れてこられた時に出会ったアンナという老預言者が登場します。

 聖書に関する話に出てきた時、良く知られたひとつの正解は「未来を予言するのではなく、神の言葉を聞いて民に伝える。」という役割ですね。『エリヤ』の歌詞には出てきませんが、「イスラエルの神、主はこう言われる。…」と始まるのが常套句です。
 聖書にはその時代だけでなく後世にも影響を与えた大預言者が何人も登場します。その筆頭がモーセです。「あなたには、私の他に神があってはならない。」から始まる十戒と(だから人々がバアルを信仰すると神様は怒るのですね)、細々した生活上の規定を定めた律法を神から告げられ、イスラエルの民に伝えました。その内容は現代まで受け継がれ、そのまま実践している人々もいるのです。(『絵画と文で綴るエリヤの世界』p.4参照) このモーセもエリヤも、大変行動派であったような印象を受けます。

 一口に預言者といっても、そのタイプは様々です。古くは先見者(原語のヘブライ語ローエーは“見る者”の意味。サムエル記上9:9)と呼ばれ、古代社会の占い師や呪術師に近い存在でした。人々や王の求めに応じて未来を見ていたのでしょう。
 その後、神の意志をもっと積極的に尋ねていこうとする人々が出てきます。彼等は集団で祭壇が置かれた聖所に行き、楽器を鳴らして自らを高揚させ、神の声を聞こうとします。私たちのイメージでは、新興宗教団体の集会といった雰囲気が近いかも知れません。彼等は琴、太鼓、笛、竪琴などの楽器を鳴らして神に呼びかけます。宗教的恍惚状態にある人の集団です。(サムエル記上10:5〜13)ちょっとアヤシイ感じがしますね。
 『エリヤ』に登場するバアルの450人の預言者たちは、こういうタイプだと思われます。ほぼ統一された独特の精神状態にある数百人もの集団が、ちっとも火のつかない生贄の雄牛を前にしてどんな様子だったか、そんな点から考えると場面は容易に想像がつきます。
 ただし、このタイプが全部アヤシイ人たちという訳ではありません。エリヤの後継者エリシャも王に預言を求められた時、楽人を連れてこさせて楽の音と共に神の言葉を告げています。(列王記下3:14〜16。やっぱり音楽の力ってすごい!?) 古代オリエント世界にはこのような宗教的恍惚状態の中で、普段とは全く違う何か理解しにくいような言葉(自分にもよく分からない、無意識に出てくるような言葉。「異言・いげん」と言います。)で信仰を表す宗教集団が広範囲に存在していたようです。ともあれ、これらの比較的古い時代の預言者たちは、宗教儀式を執り行いその中で神の言葉を語ることが多くあったような一種の職業的宗教家です。
 預言者(ヘブライ語でナービー)から派生した動詞「預言する」は、最初は先程のような宗教的狂騒状態で叫ぶことを意味していたようです。そこから現在言われるモーセを始めとするような宗教的指導者を指すようになっていったと思われます。ヘブライ語聖書では、バアルの預言者とヤハウェの預言者、もっと後の時代の預言者でも使われている単語に区別はなく、すべて「ナービー」とその変化語になっています。
 宗教的指導者としての預言者とは、人と神の仲介役をするのが務めです。神の言葉を世に伝えるだけでなく、民のために神に赦しを願うとりなしもします。権力によらない神と民衆の直接的関係による平等な社会を築くために必要な法を神に授けられ、それによってその共同体の生活を保っていく民の指導者としての役割が重要です。そのためにはカリスマ的な要素も欠かせません。

 そこへいくとエリヤはカリスマ性は十分ですが、同じ預言者と言っても少し性格が異なります。神がこう言われたと王や民に告げるのは登場する時の旱魃預言や3年後の降雨預言などがありますが、どちらかというと神がエリヤに告げる「何々をしなさい」「どこどこに行きなさい」という言葉に従って行動しつつ、ヤハウェの神への信仰を第一に考えて、神に背くイスラエルの人々の翻意を促していく(過激なやり方をしますが)、といういわば「行動の預言者」です。
 カルメル山での対決の始めに、エリヤは民にこう呼びかけます。「あなたたちはいつまで迷っているのか。主が神なら主に従え。バアルが神ならバアルに従え。」(列王記上18:21。楽譜61ページと関連) これはつまりモーセが神から授かった十戒の第1戒(先程も触れましたが「私の他に神があってはならない。」)を忘れたのか、あなたたちはどう考えているのか、と問いかけている訳です。また、ホレブ山で主に出会う(Nr.34)場面は、イスラエルの人々なら当然のようにシナイ山でモーセが神と語った出エジプト記の記事を思い出すでしょう。
 このあたりのモーセとの関連が、絵画でも紹介されていたように、後にイエスが山に登った時に顔が輝いて服が白くなりモーセとエリヤが現れて語り合ったという場面につながっていくのです。

 旧約聖書の預言者は、その後行動よりも言葉で人々を導くタイプが主流となります。第2部のNr.21で歌詞を引用しているイザヤ書で知られる預言者イザヤ(紀元前8世紀後半に活動)はその代表的人物です。正確に言えばイザヤの直筆が残っているわけではないので、その教えを受けた弟子筋が書き残したと言えますし、イザヤ書全体も3つの部分に分けてそれぞれ著者は別だと考えられています。いずれにせよ、少なくともこの2000年位ほとんど変わることなく伝えられていることは考古学的研究で明らかです。
 このタイプの預言者たちの登場の背景は、一見国が富んでいるように見えながら実は貧富の差が増大して弱者が圧迫されていたり、宗教的・社会的な退廃が目立つようになったり、国の滅亡という危機にあってどう民族的一致を保つかというせっぱ詰まった時であったり、いずれにしても平和な時ではないことは共通しています。その時の支配者に仕えるのでなく、それどころか対等に物を言うことができ、独立独歩の姿勢で神の言葉を告げるという点ではエリヤとも一致しています。

 彼等の預言に喜ばしいものは少なく、イスラエルの苦難を語る言葉があちこちに見られます。神の言葉を告げると言っても、さぞつらい仕事だったのではないかと思います。(エリヤも逃げ出したくなってしまいましたね。Nr.26アリア)しかしそれで民が自分たちには救いがないと言って下を向いてしまうのは、神の本意ではないはずです。何を第一にすべきなのか自分で考え、正しいことを実行するならそこには溢れるほどの恵みがある。預言者たちはそう説いているのです。
 私たちも日々、第一にすべきことを後回しにしたり「今日はいいや…」なんて思うことがありますよね。反省!(木曜の夜は何が第一?)

〔おまけ〕イザヤ書にはこんな預言があります。「彼等は剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ばない。」(2:4)この言葉はニューヨークの国連本部に掲げられているそうです。考えさせられますね。        
                                                                                (21. Feb.2002 アルト/ Cecilia 斉藤響子)